理念・看護部長あいさつ・歴史
理念
赤十字の看護職員として、思いやりのある看護を実践します
看護の倫理について
看護師は、「看護者の倫理綱領」(日本看護協会)、「赤十字の基本原則」に基づく看護を実施します。また日本赤十字社職員として「日本赤十字社職員倫理規程」に則って行動します。
方針
- 人としての尊厳と権利を大切にします
- 安心・安全・安楽を提供します
- 看護専門職として自己研鑚に努めます
- 和を大切にします
令和6(2024)年度 看護部目標
1.看護業務の改善活動と標準化
1) 業務改善活動の継続
2) 看護業務の標準化
3) 改善活動のための評価とその共有
2.看護提供体制(DPNS)の確立
1)【病棟】(1)DPNSの定着
(2)DPNSの評価・修正
2)【外来】(1)適切な看護提供体制の検討と推進
3.感染対策の徹底
4.安全で質の高い看護の提供
1) 患者中心の看護の実践
2) 褥瘡予防ケアの徹底
3) 身体拘束の最小化にむけて対策の実施
5.自分のキャリアを考え、自己研鑽できる
看護部長あいさつ
「赤十字の看護職員として、思いやりのある看護の実践」を理念として、救急医療、高度医療、がん医療や災害時等に対応できる看護師の育成のため、OJTとoff-JTの連携を強化した教育プログラムに力を入れています。多職種とのチーム医療にも看護職が積極的に参加し、実践力の向上に努めています。看護師の特定行為研修指定研修機関になっていること、東京医療保健大学大学院 和歌山看護学研究科が当医療センター敷地内のあることから働きながら専門性の高い継続教育を受けることもできます。
また、看護師としての誇りをもち働き続けられる環境を整えるために、働き方改革に力を入れています。部署間での応援体制の実施や夜間の看護師配置を手厚くし、看護補助者の夜勤も行っています。看護業務の見直しや他職種との業務分担などの話し合いなどもすすめていきます。
今後、未知なる感染症や災害など予測不可能な状況が発生するかもしれません。柔軟に物事をとらえ、しっかり自分で考え行動できることが求められます。一人ではできないことも、みんなで協力し、知恵を出し合い、行動することができれば解決できると信じています。看護職員一同、思いやりのある看護を実践し、実現していきます。
看護部長 東田 裕子
看護部の歴史
フローレンス・ナイチンゲール記章とは
フローレンス・ナイチンゲール記章とは、1907(明治40)年ロンドンで開催された第8回赤十字国際会議、1912(大正元)年ワシントンでの第9回赤十字国際会議の決議を受け認定された「フローレンス・ナイチンゲール基金」によって創設されたものである。この記章は、人道愛に徹したフローレンス・ナイチンゲール女史の功績を永遠に讃えるため、看護事業に特功のあった者に贈られるもので、毎年女史の誕生日である5月12日に赤十字国際委員会から授与される。
フローレンス・ナイチンゲール記章 受賞者
氏名 | 回別 | 受賞年 |
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国部 ヤスエ | 第13回 | 昭和26年(1951) |
戸沢 せい | 第22回 | 昭和44年(1969) |
フローレンス・ナイチンゲール記章 受章者(国部 ヤスエ 姉)
《略歴》和歌山県出身 1890(明治23)年2月生
1914(大正3)年 | 日本赤十字社和歌山県支部救護看護婦養成所 卒業 |
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和歌山赤十字病院に看護婦として勤務 | |
1919(大正8)年10月 | 和歌山赤十字病院 看護副長 |
1921(大正10)年8月 | 和歌山赤十字病院 看護婦長心得 |
1922(大正11)年3月 | 和歌山赤十字病院 看護婦長 |
1939(昭和14)年3月 | 和歌山赤十字病院 看護婦監督[1958(昭和33)年~ 看護部長] |
《表彰》
1922(大正11)年2月 | 勤務成績優良者としてナイチンゲール石黒記念牌を授与される |
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1955(昭和30)年11月 | 黄綬褒章を授与される |
1965(昭和40)年11月 | 勲五等瑞宝章を授与される |
《功績》
1914(大正3)年、日本赤十字社和歌山県支部看護婦養成所を卒業と同時に和歌山赤十字病院に看護婦として勤務。1916(大正5)年に助産婦資格を取得し、以後長期間にわたって看護婦、助産婦の養成に尽力した。
病院が陸軍病院となって間のない1939(昭和14)年3月に看護婦監督に就任し、戦時体制下看護部門の責任者として、看護管理と救護看護婦の養成に献身した。1940(昭和15)年6月に陸軍臨時嘱託を命じられた時は高等官待遇を受けていた。1945(昭和20)年7月に空襲を受けて病院が焼失したとき、1,200人近い患者・看護学生を無事避難させ、その手腕を讃えられた。
1966(昭和41)年5月に退任したが、その後も2年あまり無給嘱託として後輩の指導にあたった。
フローレンス・ナイチンゲール記章 受章者(戸沢 せい 姉)
《略歴》奈良県出身 1901(明治34)年5月3日生
1922(大正11)年3月 | 日本赤十字社和歌山県支部救護看護婦養成所 卒業 |
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和歌山赤十字病院に看護婦として勤務 | |
1929(昭和4)年4月 | 和歌山赤十字病院 看護副長 |
1934(昭和9)年3月 | 和歌山赤十字病院 看護婦長 |
1937(昭和12)年9月 | 日支事変に応召 救護看護婦長として病院船に勤務 |
1941(昭和16)年12月 | 和歌山赤十字病院 看護婦副監督 |
1948(昭和23)年2月 | 和歌山赤十字病院 看護婦監督 |
1950(昭和25)年4月 | 和歌山赤十字高等看護学院 教務主任 |
1962(昭和37)年10月 | 和歌山赤十字病院 看護副部長 |
1966(昭和41)年5月 | 和歌山赤十字病院 看護部長 |
《表彰》
1935(昭和10)年9月 | 満州事変救護事業に関する功労により日本赤十字社社長表彰を受ける |
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1936(昭和11)年2月 | 勤務成績優良者としてナイチンゲール石黒記念牌を授与される |
1940(昭和15)年4月 | 支那事変の功労により勲八等宝冠章を授与される |
1949(昭和24)年5月 | 看護婦としての功績大であるとして和歌山県知事より表彰を受ける |
1952(昭和27)年5月 | 永年勤続功労者として日本赤十字社社長より表彰を受ける |
1952(昭和27)年11月 | 看護婦の模範であるとして厚生大臣より表彰を受ける |
1961(昭和36)年10月 | 保健衛生関係功労者として黄綬褒章を授与される |
《功績》
1921(大正10)年3月、日本赤十字社和歌山県支部看護婦養成所を卒業と同時に和歌山赤十字病院に看護婦として勤務してより、長期間にわたって看護業務に精励し、後輩看護婦の指導と看護学生の教育に尽力した。また常に親切と温情をもって患者に接してきたその態度は、患者はもとより病院内の職員からも深く敬愛されていた。
1937(昭和12)年9月、戦時救護班の看護婦長として応召してからは病院船「オハイオ丸」「シアトル丸」に乗船し、寝食を忘れ傷病兵の看護にあたった。以後本土と広東、大連、上海、青島間などを45航海し、傷病兵の還送と看護にあたり、ナイチンゲールの再来として患者に尊敬された。
召解除後は和歌山赤十字病院に復帰し、悪化する戦局の下、その職責を全うした。1945(昭和20)年7月9日の和歌山大空襲の際には、部下を指揮して入院患者600名の救出にあたり、患者全員を救出した。病院が全焼したにもかかわらず、1名の犠牲も出さずに患者を守り通したことは、勇気と博愛精神を身をもって示した好例といえる。
戦後は、和歌山赤十字高等看護学院教務主任、和歌山赤十字病院看護副部長、看護部長を歴任し、その献身的努力と生来の誠実さをもって看護業務と看護婦教育に尽力した。
また、県下の団体・学校などの要請に応じて家庭看護法の講習を数多く行い、一般社会に貢献するところも大きく、内外の信望を得ていた。