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理念・看護部長あいさつ・歴史


理念

赤十字の看護職員として、思いやりのある看護を実践します。

方針

  • 人としての尊厳及び権利を大切にします。
  • 安心・安全・安楽を提供します。
  • 看護専門職として自己研鑚に努めます。
  • 和を大切にします。

目標(2022年度 看護部目標)

1.働き続けられる環境の整備

2-1.VRE発生件数の減少

2-2.褥瘡発生率の低下

3.DPNSが定着する

4.自身のキャリアを考えることができる

看護部長あいさつ

当医療センター看護部は、明治38年の開設から伝統を大切にしつつ、患者さんに最良の医療を提供するために看護実践を積み重ねてきました。
「赤十字の看護職員として、思いやりのある看護の実践」を理念として、救急医療、高度医療、がん医療や災害時等に対応できる看護師の育成のため、OJTとoff-JTの連携を強化した教育プログラムに力を入れています。多職種とのチーム医療にも看護職が積極的に参加し、実践力の向上に努めています。看護師の特定行為研修指定研修機関になっていること、東京医療保健大学大学院 和歌山看護学研究科が当医療センター敷地内のあることから働きながら専門性の高い継続教育を受けることもできます。

また、看護師としての誇りをもち働き続けられる環境を整えるために、働き方改革に力を入れています。部署間での応援体制の実施や夜間の看護師配置を手厚くし、看護補助者の夜勤も行っています。看護業務の見直しや他職種との業務分担などの話し合いなどもすすめていきます。
今後、未知なる感染症や災害など予測不可能な状況が発生するかもしれません。柔軟に物事をとらえ、しっかり自分で考え行動できることが求められます。一人ではできないことも、みんなで協力し、知恵を出し合い、行動することができれば解決できると信じています。看護職員一同、思いやりのある看護を実践し、実現していきます。

看護部長 東田 裕子


看護部の歴史

フローレンス・ナイチンゲール記章とは

フローレンス・ナイチンゲール記章とは、1907年ロンドンで開催された第8回赤十字国際会議、1912年ワシントンでの第9回赤十字国際会議の決議を受け認定された「フローレンス・ナイチンゲール基金」によって創設されたものである。この記章は、人道愛に徹したフローレンス・ナイチンゲール女史の功績を永遠に讃えるため、看護事業に特功のあった者に贈られるもので、毎年女史の誕生日である5月12日に赤十字国際委員会から授与される。

フローレンス・ナイチンゲール記章 受賞者

 
氏名 回別 受賞年
国部 ヤスエ 第13回 昭和26年(1951)
戸沢 せい 第22回 昭和44年(1969)

フローレンス・ナイチンゲール記章 受章者(国部 ヤスエ 姉)

《略歴》 和歌山県出身 明治23年2月生

大正3年 日本赤十字社和歌山県支部救護看護婦養成所 卒業
  和歌山赤十字病院に看護婦として勤務
大正8年10月 和歌山赤十字病院 看護副長
大正10年8月 和歌山赤十字病院 看護婦長心得
大正11年3月 和歌山赤十字病院 看護婦長
昭和14年3月 和歌山赤十字病院 看護婦監督(昭和33年~ 看護部長)

《表彰》

大正11年2月 勤務成績優良者としてナイチンゲール石黒記念牌を授与される
昭和30年11月 黄綬褒章を授与される
昭和40年11月 勲五等瑞宝章を授与される

《功績》

大正3年、日本赤十字社和歌山県支部看護婦養成所を卒業と同時に和歌山赤十字病院に看護婦として勤務。大正5年に助産婦資格を取得し、以後長期間にわたって看護婦、助産婦の養成に尽力した。

病院が陸軍病院となって間のない昭和14年3月に看護婦監督に就任し、戦時体制下看護部門の責任者として、看護管理と救護看護婦の養成に献身した。昭和15年6月に陸軍臨時嘱託を命じられた時は高等官待遇を受けていた。昭和20年7月に空襲を受けて病院が焼失したとき、1200人近い患者・看護学生を無事避難させ、その手腕を讃えられた。

昭和41年5月に退任したが、その後も2年あまり無給嘱託として後輩の指導にあたった。

フローレンス・ナイチンゲール記章 受章者(戸沢 せい 姉)

《略歴》奈良県出身 明治34年5月3日生

大正11年3月 日本赤十字社和歌山県支部救護看護婦養成所 卒業
  和歌山赤十字病院に看護婦として勤務
昭和4年4月 和歌山赤十字病院 看護副長
昭和9年3月 和歌山赤十字病院 看護婦長
昭和12年9月 日支事変に応召 救護看護婦長として病院船に勤務
昭和16年12月 和歌山赤十字病院 看護婦副監督
昭和23年2月 和歌山赤十字病院 看護婦監督
昭和25年4月 和歌山赤十字高等看護学院 教務主任
昭和37年10月 和歌山赤十字病院 看護副部長
昭和41年5月 和歌山赤十字病院 看護部長

《表彰》

昭和10年9月 満州事変救護事業に関する功労により日本赤十字社社長表彰を受ける
昭和11年2月 勤務成績優良者としてナイチンゲール石黒記念牌を授与される
昭和15年4月 支那事変の功労により勲八等宝冠章を授与される
昭和24年5月 看護婦としての功績大であるとして和歌山県知事より表彰を受ける
昭和27年5月 永年勤続功労者として日本赤十字社社長より表彰を受ける
昭和27年11月 看護婦の模範であるとして厚生大臣より表彰を受ける
昭和36年10月 保健衛生関係功労者として黄綬褒章を授与される

《功績》

大正10年3月、日本赤十字社和歌山県支部看護婦養成所を卒業と同時に和歌山赤十字病院に看護婦として勤務してより、長期間にわたって看護業務に精励し、後輩看護婦の指導と看護学生の教育に尽力した。また常に親切と温情をもって患者に接してきたその態度は、患者はもとより病院内の職員からも深く敬愛されていた。

和12年9月、戦時救護班の看護婦長として応召してからは病院船「オハイオ丸」「シアトル丸」に乗船し、寝食を忘れ傷病兵の看護にあたった。以後本土と広東、大連、上海、青島間などを45航海し、傷病兵の還送と看護にあたり、ナイチンゲールの再来として患者に尊敬された。

召解除後は和歌山赤十字病院に復帰し、悪化する戦局の下、その職責を全うした。昭和20年7月9日の和歌山大空襲の際には、部下を指揮して入院患者600名の救出にあたり、患者全員を救出した。病院が全焼したにもかかわらず、1名の犠牲も出さずに患者を守り通したことは、勇気と博愛精神を身をもって示した好例といえる。

戦後は、和歌山赤十字高等看護学院教務主任、和歌山赤十字病院看護副部長、看護部長を歴任し、その献身的努力と生来の誠実さをもって看護業務と看護婦教育に尽力した。

また、県下の団体・学校などの要請に応じて家庭看護法の講習を数多く行い、一般社会に貢献するところも大きく、内外の信望を得ていた。